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尾上梅幸 (6代目) : ウィキペディア日本語版
尾上梅幸 (6代目)[ろくだいめ おのえ ばいこう]

六代目 尾上梅幸(ろくだいめ おのえ ばいこう、1870年11月8日明治3年10月15日) - 1934年昭和9年)11月8日)は歌舞伎役者。屋号音羽屋定紋重ね扇に抱き柏、替紋は四ツ輪。本名は寺島 榮之助(てらしま えいのすけ)。
昭和初期を代表する名女形の一人で、女形役者として、十五代目市村羽左衛門の相方として数々の絶妙な芸を残した。
==来歴・人物==
尾張国名古屋に生れる。父は三代目尾上菊五郎の孫・尾上朝次郎だというが、五代目尾上菊五郎と名古屋の茶屋・信濃屋の芸妓・貞の子で、六代目尾上菊五郎の異母兄とする説もある。
はじめ初代西川鯉三郎に入門し、1877年(明治10年)名古屋の小芝居で西川榮之助を名乗って初舞台。その5年後には五代目菊五郎の養子となって尾上榮之助を名のり、以後女形の修行につとめる。1891年(明治24年)名題昇進、五代目尾上榮三郎襲名する。
1903年(明治36年)に養父の五代目菊五郎が死ぬと、子の二代目尾上丑之助六代目尾上菊五郎を、榮三郎が六代目尾上梅幸を襲名し、五代目の名跡俳名をそれぞれ引継いだ。以後、同時代の女形を代表する役者として、五代目中村歌右衛門らとともに重きをなした。1911年(明治44年)に帝国劇場が落成すると、女形としては異例の座頭(劇場専属の興行責任者)格として迎えられ、これ以降梅幸は帝劇を中心にして活躍することになる。
晩年は脳卒中の後遺症によって体が不自由になり、舞台にも精彩を欠いた。1935年(昭和10年)3月歌舞伎座で行われる予定だった「五代目尾上菊五郎三十三回忌追善興行」で「尾上梅壽」を襲名して同時に引退することを発表していたが、1934年(昭和9年)11月4日その歌舞伎座で『ひらかな盛衰記』「源太勘当」の母延寿を勤めている最中に脳卒中で倒れ、そのまま意識が回復することなく8日に死去。倒れた直後、楽屋に運ばれる途中で朦朧とした意識のうちにも裾の乱れを気にしていたことが逸話として伝わっている。
芸に対する姿勢は真摯そのものであった。大阪で初代中村鴈治郎と「土蜘蛛」を演じた際のことである。舞台上で鴈治郎の衣装がほつれ当惑しているのを見た梅幸は後見役に目くばせし、瞬時に直させた。感心した鴈治郎は弟子に「後見に出たら糸、鋏、針を持って出るねんで。」と梅幸の教えを伝えて彼の恩に報いた。
死後は雑司ヶ谷霊園に葬られたが、生前幾度となく相方をつとめた十五代目羽左衛門が9年後に死去すると、彼も梅幸の隣に葬られた。
長男に七代目尾上榮三郎、次男に早世した尾上泰次郎がいる。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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